土方歳三が運び込まれた民家

以前、蝦夷共和国名簿更新のお知らせ記事でチラッと触れましたが、
五稜郭タワー株式会社出版の『箱館戦争』という本があります。
"箱館総攻撃"の項に当然土方さんの戦死について記述があるんだけど、
ちょっと一部引用してみるよ。

小説じみてますがあくまで地元の伝承です。
(※土方さんの戦死状況については多説あり、↓はその一説。)

 (一本木)関門で歩哨を斬った土方が拍車を加えて駆け出した時、土方の後方を続行していた相馬主計ははっと思った。「土方は死ぬ」と思った。夢中で土方のあとを追って駆け出していた。バラバラと弾の飛んで来るのを感じて、相馬は地面に伏せて前方を見たとき、土方が馬から落ちるのを見た。相馬はまた駆け出していた。後方の額兵隊と伝習士官隊は、散開して射撃で官軍を制圧しながら、交互に躍進して遮二無二これもまた土方を収容しようと焦っていた。
 相馬主計が土方のそばに駆け寄った時、土方は唇を左に引いて笑ったように思った。「副長、傷は浅い、しっかり」と声をかけた。土方の手が押えている右腹の辺に、自分の兵児隊をとくと幾回も巻きつけて仮りの繃帯にし、兎に角土方を後方にさげようとあせった。とても自分の肩を差し入れ歩きながら下がれる傷ではないように思われた。島田魁が飛んできた。二人で左右から肩を入れて支えながらさがることにした。
 後方には松平太郎の指揮する隊が到着したらしく、銃声がひとしきり湧きあがった。相馬と島田は、彼我交戦の正面を避けて、南約四百米(400m)の松林の北東にある民家に土方をようやく運び入れた。二人はなんとか命をつなぎ留めようと介抱したが、腹部貫通銃創では手の施しようもなく、土方の顔から次第に血の気が引いて蒼白となって行くのを見守っていた。土方は目をつむってぐっとこらえているらしく、一言の苦痛も漏らさなかった。この民家にかつぎ入れてから二時間程も経過して、そろそろ夕ぐれの気配がせまる頃、土方は瞳孔の拡散したような目つきで、天井を見廻していたが、島田が土方の手を握って「副長!頑張ってください」と耳もとで叫ぶ声が通じてか、土方は微かにうなずき「すまん」とひとこと残して瞑目した。行年三十五歳であった。
 京都以来の新選組の同志に見守られての最期は、隊長近藤勇のそれに比べると倖せであったと言わなければならない。



相馬さんと島田さんはこの日弁天台場にいるはずなので、
この部下2人は添役の大島寅雄さんと安富才輔さんかも知れません。
土方付属の立川主税さんと馬丁の沢忠助さんの可能性もあり??
他に、亡くなった時間帯が"夕暮れ"という以外には、
特に「これは絶対間違ってる!」という記述は無いような気がする…。

しかもこの民家について、さらに詳しい記述があります。


現在(昭和43年)の若松小学校の敷地の西南角に、「土方歳三戦死の地」の記念碑が建っている。この土地のすぐ西南隣りに、小原家という旧家がある。今は亡くなられた母堂が、友人の主婦の方々数人で、何十年となく土方歳三の命日には供養をかかさず続けられていた。土方の記念碑は、昭和三十三年十二月の建立であるが、小原さんのお婆さんの供養は何十年も前からである。この話を伝え聞いて、色々調べている間に、この母堂の実家は、斎藤姓で、祖先は明治以前に福井から移住されたこともわかった。
 蝦夷政権の柵から西に約五百米の、潅木のような松のパラパラとある所の一軒屋は、箱館の近郷大野村等に移住した福井出身の人々の連絡所であり、農産物、林産物の荷捌所としていた――斎藤家はその後ここに長く居住しておられる。箱館戦争の時、土方歳三が一本木付近で射撃され負傷しこの家に運び込まれて介抱を受けながら死んだという伝えを、小原家に嫁した亡き母堂が娘時代に聞いておられ、小原家がたまたま、土方のうたれた場所に隣接しているという因縁から、毎年の土方の命日には人知れず同志の婦人方で法要をしていたというのである。



婦人方で…!!Σ( ̄д ̄*
って、いやごめん、そこすごい喰い付いた。さすがだなぁと。笑

本当はもっとこの説について検証したいんだけど、
そんなこと言ってるとどんどん先延ばしになっちゃうので、
とりあえず提起だけしときます;;何かのヒントにでもなれば…。

【参考?】
・当時の戦況から、土方さんが狙撃された時刻は朝9時~10時頃。
・市村鉄之助が土方さんの戦死を知ったのは5月11日正午頃。
 (『続新選組史料集』所収「今昔備忘記」)
・沢忠助が落馬直後に土方さんに駆け寄ると、既に亡くなっていた。
 (『聞きがき新選組』)
・大野右仲は安富と大島から土方さんの戦死を聞いた。
 (『新選組史料集』所収「函館戦記」)
・松前藩士の米田幸治が土方歳三は自分が狙撃したと証言。
 その後、確認した遺体には首が無かったという。
 (『箱館戦争銘々伝』項「米田幸治」)
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COMMENTS

上はちょっと具体的過ぎてかえって信用性が薄くなっているような気もします。

民家での言い伝えについては、その家の人が見てたのか?というツッコミが地元雑誌でなされたことがあります。
弾が飛び交う中では、家の人も逃げてたんじゃないの?という。

戦闘が終わって家人が避難場所から帰ってきたら、家の中に血痕があった。
誰かが家の中に入ったようだ。
どうやら、土方という人がこの近くで亡くなったらしい。
じゃあ、その人が我が家に運び込まれたんじゃないのか?
・・・というふうに伝承は作られたのではないかとその雑誌では書いていました。

とはいえ、文書に残っていることが正しくて言い伝えが正しくないとは本当は言えません。
いろんな説があるのがいいところなんだと思います。

>キトラさん☆

やっぱり地元でも話題にされたことあったんですかー。
その雑誌の言う、伝承が作られた過程もありえる話ですね。

一応、箱館市中には榎本政権からも新政府軍からも避難勧告が出されていたんでしたっけ?でも残っている市民もいて、戦争に巻き込まれて命を落とした人もいたらしい、と聞いたことがあるような…うーん、やっぱり結局結論は出ないですね(笑)。

いろんな説があるのがいいところ、ていうの同感です^^

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