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己巳五月十一日土方歳三戦死於箱館一本木関門

今日は旧暦でいうところの、土方さんが戦死した日です。
で、資料版『土方歳三最期の一日』&その後、みたいな記事を作ってみた。
『新選組!!』で土方さんを知った人でもわかりやすくしてます?(疑問)
武勇伝☆二股口の戦い(携帯)に続けて読むのがオススメ。
マジ長い記事になったので気を付けてください;;

※以下の文章は全て現代語訳。

明治2年己巳5月11日箱館


今朝、敵の陸軍1大隊ばかりが船を使って、箱館の寒川(箱館山の裏手)と言う所に上陸したと言う。以前からこの危険性があることを考え警戒していたのだが、番兵の油断により、濃霧の中、敵が登ってくる事に気づかず、急遽これを防ごうとしたが、すでに敵は全員上陸し山上に登っていた後だったため、力及ばず敗走し、新選組は弁天台場へ立てこもり、伝習士官隊は連戦して一本木関門の方へ退いた。
―――――――――― 『南柯紀行』 陸軍奉行:大鳥圭介著


昨夜、敵が箱館山の背後から、いつの間にか、密かに上陸していた。後々人の話に聞いたところによると、仲間のうちで敵を導いた者がいたと言う。あり得そうな事だ。
―――――――――― 『函館戦記』 彰義隊隊士:某氏著

たちまち箱館山の頂上から小銃の音が聞こえた。見上げると、官軍がすでに山の頂上に登っていた――主殿(相馬主計)は、「私は弁天台場に留まりここを守る。君は外に出て援軍を連れて来い」と私に言った。

千代ヶ岡陣屋に到着すると、陸軍奉行(並)兼箱館市中取締頭取の土方歳三が、額兵隊2小隊を率いて今まさに箱館を助けに向かおうとしているところに出会ったので、私もまた馬首を回し、(土方に)従って一本木関門に向かった――この時、官軍は山を下り、一隊は箱館と五稜郭をつなぐ道を断ち、一隊は弁天台場を襲った。弁天台場の諸隊は、火を回りの民家に放って防戦した。

四方に散らばっていた敵の軍艦は、全て箱館湾に集まった。蟠龍丸は数艦を相手にし、弁天台場と連携して戦った。蟠龍丸の砲弾が朝陽丸を砕き、海上の轟音は雷の如く、炎は天にみなぎって、我が軍はみな喜び叫んだ。歳三は大声を上げて、「この好機を逃すな!士官隊に命令を出し速やかに進軍せよ!だが一度敗れた兵をすぐに用いることは難しい、私はこの関門に留まり退く者を斬る、お前は兵を率いて戦え!」と言った。
―――――――――― 『函館戦記』 新選組隊士:大野右仲著


土方先生は、額兵隊を率いて最後尾についた。ゆえに異国橋まで敵は退いた――七重浜より敵が後から攻めてきたので、土方先生はこれを指揮した。ゆえに敵は退いた。
―――――――――― 『立川主税戦争日記』 新選組隊士:立川主税著


士官隊は先ほどの敗戦で気力がすでに削がれていた。敵の白刃を見て恐れ、隊伍が乱れた。額兵隊は官軍が尻沢辺(地名)を過ぎて東方へ向かうのを見て、「敵が退路を断とうとしている」と騒いだ。

私は大声でこれを叱った。しかし少し進んではそれ以上に退き、その勢いは止める事ができなかった。ただ奉行(土方)のみが必ずこれを関門で食い止めてくれると思っていたが、みな関門を過ぎて行くのでさらに驚き、「奉行が約束したのはこの事だったのに、これを止めないとはどういう事だ」と思っていたところに、同僚の大島寅雄、安富才助と千代ヶ岡陣屋で会った。そこで初めて、奉行が馬上にて関門付近にいたところを狙撃されて死んだ事を知った。

馬を走らせ五稜郭に着くと、同僚の牧野主計、津田主計が私を見て、「官軍は弁天台場を襲ったと聞いた。どうして君はここに来たんだ」と言った。私は「緊急事態だ。諸君に話している暇は無い」と言った。
―――――――――― 『函館戦記』 大野右仲著


歳三は奮戦し、自ら陣頭に立ち、刀を抜いて決死の兵士達を指揮し、奮って進軍して戦い、官軍は退いた。たまたま銃弾が飛んできて腹部を貫き、倒れたがまた立ち上がり、一声叫んで、そして倒れた。
―――――――――― 『近藤勇の伝』 彰義隊隊士:丸毛牛之助著


この日、総裁榎本釜次郎は五稜郭にいて諸方面の号令を司っていたが、土方歳三が戦死したと聞いて逆上し、自ら出陣しようとしたところ、周りの皆は総裁が怒りに任せて判断を誤ることを恐れて、説得して行かせなかった。
―――――――――― 『感旧私史』 丸毛牛之助著


私(大野右仲)は悲嘆し、すぐに馬を走らせて五稜郭に至り、総裁榎本釜次郎に会って、箱館の敗戦を詳しく語った。榎本君は、「新選組と砲兵隊の2隊が弁天台場で包囲されているのを知って、これを助けられないなどとは信じられん。諸隊に命令するまでもない。私が自ら出陣して戦う」と言い、今にも馬で走り出そうとした。みな馬を抑え総裁を説得して、「総裁が弁天台場に向かってしまったら他方面への指示はどうすればいいのですか。総裁はここを動くべきではありません」と言った。
―――――――― 『戊辰戦争見聞略記』 新選組隊士:石井勇次郎著


夜、五稜郭の堤上を歩きながら見ると、月は欠けて天にあり、広野が限りなく広く見えた。弁天台場は箱館湾を隔てて雲煙の中にぼやけていた。

ただ一人尊敬し仕えてきた奉行(土方)の死を嘆き、兄弟のように親しい者もみな離れた所にいて、私だけが敵に遮られてそこに行くことができない。涙を流して、楚国項羽の「時あらず騅行かず」の歌を吟じた。
―――――――――― 『函館戦記』 大野右仲著


土方隊長は――慶応4年10月、榎本和泉(武揚)殿と同盟して蝦夷に渡られ、陸軍奉行並海陸裁判役を司られ、その後、4月瓦解の時には、二股と言う所に出陣して大勝利を収めました。

その他にも数度戦い、松前方面がついに敗れたため引き揚げ、同年5月11日の箱館瓦解の時には、町はずれの一本木関門にて諸兵隊を指揮され、ついに同所にて討死され、誠に残念至極に思われます。私はいまだに無事です。何の面目がありましょうか。今日に至っては籠城戦と、軍議は定まり、みな討死の覚悟であります。

――隊長が討死なされたため
(追悼句)
  早き瀬に 力足らぬや 下り鮎
――――――――――新選組隊士:安富才助の書簡 土方隼人宛


陸軍奉行添役の大野(右仲)氏が、援軍を求めて五稜郭へ行き、そこから帰ってきた日、私達は五稜郭の状況を詳しく尋ねた――弁天台場にいた新選組隊士達は、その長(土方)が死んだと聞いて、赤子が母親を失うがごとく悲嘆して止まなかった。
―――――――――― 『戊辰戦争見聞略記』 石井勇次郎著


明治2年5月11日、箱館瓦解の時、数兵を率いて、猛虎が羊の群れを追って走り回るが如くしゃにむに奔走し、ついに乱弾の中狙撃され、馬上にありながら討死した。全軍みな、痛惜の声に堪えなかった。
―――――――――― 『戦友絵姿』 新選組隊士:中島登著


土方隊長は、5月11日の朝、額兵隊と伝習隊1分隊ずつを率いて五稜郭城外へ出陣した。これは、「狭い城内での籠城戦は、女々しい仕事で満足できぬ」と憤然し、自ら野外に躍り出たものだった――海岸近き一本木関門より突撃猛進し、異国橋近くに至り、土方隊長は馬上で大声を張り上げ、縦横に指揮をふるっていた時、一発の弾丸が腹部を貫通した。「やられた」と言って落馬した。この時まで付き添っていた沢忠助が駆け寄って抱き起こしたが、ああすでに一言も発しなかったと言う。土方戦死の報が伝わって、旧幕脱走軍全体の士気は大変沈んで来たそうである。
―――――――――― 『聞きがき新選組』 土方歳三親戚:佐藤家著


主殿(相馬主計)は釜次郎(榎本武揚)に、「今日、総裁が(徹底抗戦か降伏か)決意をするならば弁天台場もまた決意します。ですが五稜郭と弁天台場は官軍が通行を遮断していますので、(今後は)伝達がうまく行きませんし、私達は隊士達の話し合いで決まった方に従いますので、総裁の命令を必ず守るという事はできません」と言った。
―――――――――― 『島田魁日記』 新選組頭取:島田魁著


永井(尚志)公はみなを説得して、「みな潔く死ぬことを望んでいるだろうが、官軍も信義をもって恭順を勧めている。これもまた無下にすべきものではない。それに、むやみに死んだところで何の価値もない。官軍に対し武士道をもって応ずるのであれば、官軍の意向に従うべきではないか」と言った。みな、うつむいて答えなかった。しばらくあって、「僕らが心配していることは、一度降伏すれば、つまり帯刀が許されません。もし帯刀が許されれば、あとは総裁の命令に従います。自ら武器を投じて降伏するなど、たとえ身体をばらばらにされてもする事はできません」と言った。

永井公が恭順を説くと、五稜郭にいた総裁(榎本)と副総裁(松平太郎)などは、ひとえに死を決心したが、兵隊などは今すぐにでも室蘭(北蝦夷)に脱出しようとしたり、あるいは総裁と副総裁の首を携えて敵に降伏しようという話をしたり、軍の状態は大いに衰え――
―――――――――― 『戊辰戦争見聞略記』 石井勇次郎著


※降伏までの経緯は省略。
下図は明治2年5月11日箱館戦況図。時間はあくまで推定。

箱館総攻撃

(明治2年)6月15日、日陰、夕刻小雨――北海の訃報、耳に入り嘆息。
―――――――――― 『橋本家日記』 土方歳三の親戚:橋本家著


ある日の夕暮れ、乞食の小僧が一人、手ぬぐいを被り酒筵を身にまとい、古びた衣服の破れたものを着て、我が家の軒に立って家内の様子を窺っていた――ついには台所に入ってきて「この家の人に会いたい」と、懐を探って古びた胴巻きから、写真と小切紙を差し出した――8畳の部屋に連れて行き、回りを閉じ、父と母はその乞食を尋問した。

「この写真は土方(歳三)だ。この小切紙は義豊(土方歳三)の筆跡だ。あなたはどういった者か」と。小僧が涙を浮かべて言うには、「私は土方大将の小間使いをやっていた、市村鉄之助です。去る(明治2年)5月5日、大将(土方)は私達を五稜郭内のある一室に連れてきて、『お前に大切な事を命じよう。何の事はない、今から江戸の西にある日野宿の佐藤彦五郎のもとへ行け。これまでの戦況を詳しく言い伝えろ。函館港に泊まっている外国船が2、3日中に横浜へ行くそうだ。今、船長に依頼して、手続きをしている。この写真と書き付けを身に着けて行け。金は2分金で300両渡す。もうすぐ日暮れが近いからちょうどいい』と命じられたのです。『私達はここで討死する覚悟です。他の人に頼んでください』と言うと、大将は大変怒って、『私の命令に従わないのであれば、今ここでお前を討ち果たす』と、腰の一刀を引き抜いて真正面に振り上げました。その権幕は恐ろしく、(本当に)私の首を落とそうとしました。この時私は『仰せに従い日野に行きます』と言ったので、大将はにっこりと笑って、『ではすぐに行け。日野宿の佐藤家に着けば、お前の身の上は心配ない』と。

それから私は案内人に連れられて五稜郭外に出ました。振り返ると城門の小窓から見送っている人がいました。たぶん大将だったのだと思います。無事船に乗り、船長の個室に隠されました。船の都合で出帆が延期されました。そして11日正午頃、大将は海岸の一本木(関門)で戦死したと聞きました。そして、私がお側にいて一緒に討死しなかった事を嘆きました」と、涙を流しながら語った。聞いていた父も母も、老母も、私も、一緒に泣いていた。
―――――――――― 『今昔備忘記』 佐藤玉陵著


明治2年己巳5月11日、箱館一本木と言う所で義弟の土方義豊(歳三)が戦死したのを人々が悲しんで、追悼の和歌・漢詩を手向けて『梅雨月』と題した1巻を彼の地(蝦夷地?)より携え来た立川氏の志に感激し、また、戦争中の話を聞いて
(追悼句)
待つ甲斐も なくて消えけり 梅雨の月   盛車(佐藤彦五郎)
―――――――――― 『聞きがき新選組』 佐藤家子孫著


土方(歳三)様まで戦死され、御家族も残念な事と思います。生前にお預りした物がありましたが、沢忠助様が東京へお越しの際に、たびたび使いの者を寄こして来たため、お渡ししました。亡君(土方様)からは、今度討死した際には八王子のお住まいへ差し送るようにと言われておりましたが、図らずも沢様より使いの者が来たのでお渡ししました。

本来なら私が知っている方、島田(魁)様や尾関(雅次郎)様へ渡そうと思っていたのですが、思うようにならず、余儀なくこのような次第になりましたので、悪しからずご了承ください。

亡君(土方様)の法事を営み、毎月の仏事もいたしておりますので、この事をついでになりましたが申し上げておきます。御法名は、近藤(勇)様との釣り合いを考えて、このようになりました。

 明治2年 歳進院誠山義豊大居士 巳5月11日
―――――――――― 大和屋友次郎の書簡 立川主税宛


(明治5年)21日。晴れ。栗山牧牛場に行った。牧牛の先生は竹柴保次郎と言って、榎本泉州(武揚)に従って松前(蝦夷地)へ行き、五稜郭で降伏した人だった。

この人の話を聞いて初めて知った。私が一度だけ会った事がある土方歳三は、官軍が箱館に攻めて来た際には二股口の戦いに力を尽くし、明治2年5月11日12時に、(一本木)関門で戦死したというのだ。腹部に銃弾を受けて即死したという。
―――――――――― 『学海日録』 幕臣:依田学海


当時、土方君の遺体がある場所は多説あって明確ではなかったが、柳川(熊吉)などが力を尽くして調べたところ、函館から少し離れた七飯村という所の焔魔堂に、土葬して宝物のごとく大切にしていた事が判明し、いろいろ相談した後、再び火葬に改め、明治12年になってようやく碧血碑の中に収めたと言う。

ちょうどその時、榎本君がロシアから帰って来て函館に寄っていたので、土方君の遺体が明らかになった事を聞いて大変喜んだと言う。また、「碧血碑は多くの戦死者がいる中、土方君に最も重きを置いており、言うなれば、土方君のために建てたと言っても差し支えない」と言う話だった――また、柳川熊吉なる者は、以前土方君の部下として働いていた者だとの事で、土方君の性行などを、涙をこらえながら語っていた。
―――――――――― 加藤福太郎の書簡 平忠次郎宛


箱館脱走軍の墓(碧血碑)の写真1枚を、相澤氏に託してわざわざ贈ってくださり、大変感謝いたしております。さっそく義豊(土方歳三)の碑前に供えました。天国で(歳三も)喜んでいることでしょう――お贈りくださる手紙を見るたびに、なんとなく当時の五稜郭の景色を思い描いてしまい、明治2年5月中旬、涙と梅雨と共にうつうつとした時の事まで思い起こされます。
―――――――――― 土方隼人の書簡 元海軍奉行:荒井郁之助宛


たまに酒を飲み上機嫌のときは、藩主定敬公を護衛して遠く蝦夷地に渡り、土方歳三とともに最後まで戦いを続けたことを常に自慢していたという。ただし、なぜか新選組であったとはいわなかった。
―――――――――― 『歴史読本』 新選組隊士:関川代次郎子孫談


(大正元年頃の)ある日、仙人のような風貌のぼさぼさの白髪頭の老人が訪ねてきてね。わけありげに、『仏様を拝ませて欲しい』というのでお座敷に案内すると、仏前で泣き崩れて、お経とも繰り言ともわからないようなことをぶつぶつと2時間ぐらい言っていた。それからやっと、その人が小柴長之助(土方歳三の部下)だということを明かして、石田寺に墓参りもして帰っていった。
―――――――――― 『子孫が語る土方歳三』 土方康談



以上です。や、まだ他にもあると思いますけど汗;
現代語訳ダラダラ並べただけじゃんッてツッコミは無しの方向で/笑。
最期の一日っつうかその後の方が多かったですね…( ̄口 ̄;
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COMMENTS

初夏の風とともに去りぬ

ぐぬおぉぉ、あるゆさん。困りますっ、こげな大特集はっ!
ただでさえユルユルなワタクシの涙腺、ぶっこわれてしまいますたよ・・・。
特に、残された人たちの「喪失感」が、も~たまらなく切ない哀しいやりきれない。
(あっ、鼻真っ赤)

おじゃまします

あるゆさん、こんにちは。先日はありがとうございました。
お会いできてとても嬉しかったです!

こちらの記事、土方さんのご命日に合わせた
素晴らしい出来ですね!感動しちゃいました。
土方さんへの愛を感じます。
たくさんの史料から時系列に出来事を追えて
とても分かりやすいです。

土方さんてすごいなあ…
エピソードのひとつひとつが魅力的といいますか、
人気があるのも頷けますね。
こんな風に言い残されている方のお墓にお参りしたと
思うと、歴史って今に続いてるんだな、と
生々しく感じます。

あるゆさん
うわお~♪力作ですね!!TBさせてくださいね。
まちさんと一人虫さんが、書かれていらっしゃいますが、
もう、泣きましたよ・・・・こちらを読んで。。。。
(あちこちのブログさんでじ~ん、としております)
確かに5月10日、の記事、ってなかなか無い、
んですよね・・・・。

あるゆ選手
ううー・・・
一人虫さん、julesさんじゃないですが私も感慨深く、ウルウルしてしまいます。
記事リンク&TBさせていただきますた。合掌。

あるゆさん、素晴らしい記事をありがとうございます。朝から泣いてしまいました。こちらにお邪魔し始めたのは、組!続編もとっくに終わったころからでしたので、ご指示(笑)どおりに、二股口の記事から連続して拝見しました。先日の紳助さんではありませんが、「先は見えてたんや」なのですが、そう、武士の恥なんですよね。。。二股口から遥か離れた場所に道を新政府軍が作りながら進軍した<爆笑>こともミーハー歳三ファンである私は初めて知りました。そして、亡くなった後も皆から慕われ続ける土方歳三。宝物のように土葬されていたという話や彦五郎さんの追悼句にもグッときました。なんだかどのような土方歳三のドラマを作っても史実には敵わないのではないかと今日しみじみ思ってしまいました。

すごいね!!超大作じゃん☆★
こういう文章ってやっぱ、実際にかかれた文章をみる(要約されたものじゃなくて)とじーんとくるよね。

>一人虫さん☆

初夏の風…
ど、どうぞティッシュを!!いくらでも使ってくださいッ!(違)

喪失感…すごく感じますね。土方さんて即死(またはそれに近い?)だから、皆に看取られて静かに死んでいったとかじゃないじゃないですか。気づいたらもういなくなってたってすごい切ない、というかやりきれない、というか、私も泣いていいですか。

>まちさんv

私こそ!まちさんにお会いできてすごく嬉しかったですvV
また会っていろいろ話しましょうね!
箱館のこととか、もしくは蝦夷のこととか、あと箱館のこととか。

記事、ほめてくださってありがとうございます///;
いやマジで現代語訳並べたなんですけど、それだけで魅力は充分…あ、すいません、調子づいて来ました/笑。

歴史は続いてますよね!!!

>julesさん♪

TBありがとうございますっ
あとで私からもTBさせてください♪♪

たぶんホントに、朝早くの奇襲から数時間後、アッと言う間に戦死、だったんじゃないかなーと…だから書き残せる人が限られ泣。でも、いつも側にいた大野さん達添役が、こんだけ土方さんのことたくさん伝えてくれてるのがすごく嬉しいです。大野さん達、いつか小説やドラマにちゃんと出てくるようになるといいなぁ…

>ままこっちさん♪

TBありがとうございます!
私からもあとでTBさせていただきますね*

合掌。
うぅーコーチぃ~涙;;
関係ないですが今日浦賀行ってきました~
観音崎ってとこで海見てきました。イイ天気でした。(は?)

>月子さんv

長い記事続けて読ませちゃってスイマセン!汗
でも読んでくださって嬉しいです、わーん;;ありがとうございます;;

彦五郎さんの追悼句、これはキますよね…涙。
梅雨月…これまたなんて「らしい」んだろうとか思います。
は!島田魁さんの、土方さんへの追悼歌にもそういや月が!

鉾とりて 月見るごとに おもふかな
 あすはかばねの 上に照かと


…コメント内ですいませんでした;

島田紳助さんのその言葉、嬉しいですよね!
ホントにファンなんだなーて気がしますヨv←何様/笑。
私も土方さんに関しては、史実に勝るものはないと思ってますッ!

>くろみつ☆

マジで?大作かな///照。←ウザッ

うんうん、なんかさー研究書の解説とか要約を読むより、直接資料を読んだ方が、なんとなく土方さんに近くなった気がするよね(末期)。

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土方歳三最期の一日(史実)

[http://blogs.yahoo.co.jp/yumesaiki/trackback/1284956/34099447 歳希さん]のブログの記事、で、はっ!としました。{{{              5月11日は、土方歳三の命日}}}で、ございました・・・・・。今日、気付いて、よかった。。。。。(明日は朝から夜遅く

慶応5年5月11日。

ゲー、日付が変わってしまった(滝汗)すみません・・・今週マジで激務、で今日は夕方から猛烈な睡魔に襲われ、帰宅後仮眠、今起きました・・・で、5月11日は。歳さんの命日(旧
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