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土方歳三 枕投げ事件簿

さてさて大変長らくお待たせ致しました。(?)
この記事は勝手に土方歳三特集vol.2vol.3の続きです。
てゆかやっとここで、「投げた」という証言が出てきます。
なっげぇ前置きだった…;

土方さんに枕を投げられた、羨ましいこと山の如しな、
エリート文官・望月光蔵さんのその後も少々お送りしていきます☆ * * * * * * * * * *

土方さんが「枕を投げた」と語った方は、望月光蔵さんのお孫さんです。
『告白の告発』で、お孫さんの望月始さんはこう語っています。

祖父は会津若松で同宿の新選組の部屋に見舞いに行き、そこで土方歳三と議論し喧嘩別れして戻ってくる。土方は、暗に、松平容保の消極的態度を非難し、ただちにオレについて来いと言った。これに対し、心中土百姓上がりが小癪なといった怒りで反発する。結局祖父は、徳川大企業で育てられたサラリーマンで、会津藩にあっても、大組織の一員として活動する以外に念頭にもなかったのだ。

父からの聞き伝えであるが、そのとき土方は怒って枕を投げつけたという。

会津藩にしても、土方を隊長とし簡単に藩主の統制に服さない旧幕の客軍には些かもてあまし気味ではなかったか。が、祖父が新政権に対する抗戦の意志は強固でありながら、会津藩の軍政や管理面の文官的任務の担当を希望したのはどういうつもりであろうか。かく、孤立無援に近い戦況となりつつあるとき、むしろ文官もすべて戦闘員に動員さるべき方が焦眉の現実である。ただ祖父の見通しのアマサと言うほかない。



おお…なかなか祖父に対してですけど、厳しい評価ですよね。
「土百姓」と言う言葉が出てくるのに切なさを感じました…。
それにしても良かったです、望月家が土方さんの枕投げを伝承してくれて。
てゆか、なぜそこが伝わるのか!?笑。いや伝わって良かったけど!
よっぽどビックリしたのか、よっぽど土方さんが印象深かったのか。

- - - - - - - - - -

そして枕を投げられた望月光蔵さんはその後どうしたかと言うと。

閏4月末、会津藩主松平容保様に拝謁しました。
以下、望月光蔵さんご本人著「夢乃うわ言」の現代語訳。

翌日、野村何とかと言う人が容保様の命令を知らせに来て、「先日、我が軍は板室に敗れて兵を多く失った。三斗小屋を緊急に守備するため、すでに一隊を援兵として送ったので、あなた方も、(協力する)意志があるならば(三斗小屋に)行って、一緒に助力して(戦って)ほしい」と言った。私の本意は、藩主(松平容保)の親軍に従って軍政に携わる事だった。今、この命令を聞いて失望するも、状況により止むを得なかった。



と言うわけで、結局戦闘員として駆り出されてしまいましたとさ。
しかも土方さんと別れて1ヶ月経つか経たないかぐらいで。早。

文官の夢破れた望月さんはその後ずっと従軍する事になります。
5月19日、上野戦争(5/15)の事を知ります。けっこう伝播早いですね。
てことは…前は知らなかったんじゃ、て言ったけど、
閏4月上旬辺りで、近藤さんの斬首は伝わってたかもですよね…。
…………いつ知ったんだろう、土方さん。
療養期間が妙に長い、とか聞きますけど。約3ヶ月…長いの?(さぁ)
やっぱり精神的なものもあったのかな…とか思ったり。

8月入ってからとか、望月さん、だいぶ戦闘に慣れてきたのか、
敵兵フツーに撃ち倒したりしてんですよね/笑。
お前もう文官じゃねーよ!!みたいな活躍っぷりです/笑。

そしてなんと永倉新八さん達にも会ってんですよ!
慶応4年8月26日です。

道中、江戸言葉の者2名に会った。私は(彼らと)隣接して(歩きながら)話をした。一人は芳賀何とかで、徳川家の家臣だと言い、一人は新選組の隊士の何とかと言う人で、名前は新だと言った。その行く先を問うと、二人は、「僕らは米沢藩の隊長小島竜三郎との盟約があって、何とか旅宿の何とか村に行く」と言った。



望月さん、記憶が曖昧ですが(汗)、書き残してくれて感謝。
で、永倉さん達と一緒に会津若松に向かった望月さん。
途中、いったん別れますが、またすぐ27日に何とか村で合流。
そこで今度は新選組隊士・近藤芳助(隼雄?)さんと会います。

私は、小島(竜三郎)に面会して(自分の考えを)言おうとした。近藤何とかと言う人が側にいて、こう言った。「私は近藤隼人の弟です。以前、兄からあなたの事を聞きました。私から伝えてありますので、小島さんも(あなたの事を)知っています」



お?望月さん、さすがエリート文官なだけあって、もしや有名人??
ていう事は、こんな人に枕投げるなんてけっこうエラい事ですよね(笑)。

- - - - - - - - - -

うーん…なんか無駄に長くなってきたような;
この後、望月さんは古屋さんや大鳥さんの隊にも出くわすんですよ。
衝鋒隊の内田庄司さんと会ったり、また永倉さん達と同宿したり。
米沢藩で会津落城を知り、小島さんにお世話になりつつ日々を送ります。
てか…あー、すいません、もう土方さん出てこないのでヤル気が…汗;
もうここで終わりますが、望月さんの手記、面白いと思います。
会津戦争詳しい人が見れば、もっといろいろわかるんじゃないかと。
永倉さんの『新選組顛末記』と比較してみるのも一興?

とりあえずこれまで!(うわー)
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COMMENTS

あるゆさん、待ってました(涙)。労作、ありがとうございます。
やはり史実は面白い。とくに、出来事の背景にある当事者達の心の動き、私はこれを推理するのが大好きなんです。(別名・妄想とも言うw)
望月さんのお孫さん、実は土方ファン?「いいなあ、じいちゃん。土方さんに枕投げつけられたなんてさあ(涙!)」とか。
まあとにかく、土方さん自身は、わずかの手紙以外何も書き残してないので、状況証拠&他人の証言で行動の軌跡を追うしかないわけですけど、「謎の三ヶ月」はちょっとひっかかりますよね(某作家は、怪我したフリして隠密行動とったことにしてますしw)
骨折なら、骨がくっつくまで約1ヶ月~1ヵ月半。足指が吹っ飛ぶくらいの怪我でも、3ヶ月絶対安静は長い気がします。前線には出ていなかったけれど、いろいろ要人と会っていたフシもありますし、ずいぶん政治的な行動を取っていたんじゃないでしょうか。とくに、蝦夷地新国家についての根回し、とか(新資料がもっと出てこないかなあ)
そして、望月じいちゃん。孫から見ても、ちょっとエリート意識に凝り固まったところがあったんでしょうね。でもそれは、実は「自信のなさ」の裏返しだってこと、孫はしっかり見抜いてるわけだ。実力で戦場を駆けめぐり、リーダーとして部下の尊敬と憧憬を一身に集めるカリスマ(&いい男)に対する、青白き秀才の嫉妬だってことに。

>一人虫さん♪

私ももっと新資料、出てきてほしいと思ってるんですよぉ。
今日、流山の講演会に行って、詳しい方々と話して来ましたけど、なんか今後、さらにモリモリ新資料が見つかる予定だそうで/笑。わずかな史実から想像できる背景(妄想?)って楽しいですよね♪♪

謎の3ヶ月、近藤さんの墓はいつ建ったのか、とか、戒名もらったのは、とか、温泉入ったのは、とか(笑)いろいろありますよね。良順さんが会津に居た時期ってのも何かしらのカギになるような気がするんですが、良順さんの行動もまだ把握できず…;汗はぁ~;新資料~ッ!!!(うるさい)

>あるゆ選手、一人虫さん
歳さんのケガって、どうなんでしょうね、かなり重傷だったとは聞いていますが、3ヶ月。。やっぱり長いんでしょうか。
当時医療技術といっても、現代とは比べようもないレベルだと思う一方、一応良順先生という当時国内最先端の腕を持つお医者に診てもらっていたはずだし。。謎が多いですね、歳三in会津は。
枕投げは動けないことへのイライラ感から出た行動だと思っているんですけど、望月さんのお孫さんがすごく現実的な見方をしているのに驚きます。そりゃ、火急の事態、文官武官関係なく現場を支えないと。ですよね。
あるゆ選手のさらなるwork、楽しみにしています!(「就」のほうもガンバレー)

>ままこっちさん♪

良順さんが会津に来る前は、そりゃーもう、西洋医学サッパリの村医者流応急手当てで、銃弾が足に入ったまんま包帯巻かれる、なんて事まで普通にあったらしいですね;汗。おそろしか!良順さんいなかったら、会津はもっと悲惨な状況だったかも知れないですよねー;;

土方さん、何気に命令等は遠方から発してたんでしょうか?笑。白虎隊と会ってたって伝承も気になるし。

「就」!?
そ、そそそそそれは一体何のことですかぁ!??
見ざる…聞かざる…言わざる…や、嘘です、頑張ります;;涙

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