『谷口四郎兵衛日記』vol.1

はい、解読しましたー。たにぐちしろうひょうえにっき~。
(「しろうべえ」だと思ってたよ…昔の人名ってわからん)
これはね、あれだよ。『幕末史研究』NO.27に載ってるよ。しかも原文。

ほぼ楷書なんだけど、たまにくずし字が入ってるのですよ。
印刷薄くて読めないとこもあるし。てゆうか活字版出てないの?(さあ)
引用NGらしいので全部現代語訳でいきます。

あ、そうそう。
谷口四郎兵衛さんてのは、よくわからんけど旧幕府軍側の人で、
主に土方さんと共に進軍していた人みたいよ?(テキト;)
1868年4月11日の江戸脱出から始まり、1869年5月11日に終わっていると言う…。
なんともドキドキな日記であります。

* * * * * *
まず最初に土方さんの名前が出てくるのは脱出5日後の4月16日。

(日光西街道)宗道村の名主・四郎兵衛は徳川家への恩が特に深く、自分の使用人をはじめとする1500人ほどの兵士や兵糧、金子を提供することを(我が軍に)願い出たので、土方は喜んで受けた

喜んでる!!可愛いー!!!(え)

は、いや、そりゃ喜びますよね。喜んでるぐらいなんだってんだよね…ふ。

さて、大鳥さんのも同じような事があったようです。(『南柯紀行』現訳)

(4/24) 黄昏時、ある村を通行すると、農民達が出て来て、「どうぞ茅屋に入ってください。」、「兵糧を使ってください。」と言うので、半丁ほど立ち寄ると、縁側に籠を並べて握り飯を山のごとく積み上げ、通行する(我が軍の)者に与えた。私はあまりにも不思議に思って、「なぜ、こんなにも私達を饗応するのか。」と問うと、農民が言うには、「私達は農民ではありますが、実に長い間、東照宮(徳川家)の御恩沢に預かっています。徳川家のために御尽力ある(方々)に、せめてもの御用を相勤め、三百年来の御恩義に報いる寸志です。」と落涙して述べるのを聞いて(私は)大いに感歎し、“それにしても、譜代大名や幕臣達の中にも、ただ生活を楽しんでいるだけの者がいるのに、この農民にもこのような忠実な心があるとは、実に可憐だ。"(と思った。)そこで、金子5両ばかりを取り出して、与えようとしたが(彼らは)辞して受けないので、(私は)強いてこの金子を(彼らに)渡し、深く謝して立ち出でると…

あぁ…谷口さんにもこれぐらい豊富な描写をしてほしかった…。
しかも大鳥さんてば結構強引!?土方さんは逆に金子もらってんのに!!(笑)
まあ名主と農民の違いもあるのかな。

この後土方さんはぐんぐん進みましてー。19日に笠間藩士を捕らえます。
捕らえた笠間藩士・兵右衛門さんに向かって土方さんはこう言います。

「私は(そちらの)事情をよくわかっている。ただ、同じ幕臣である笠間藩が、我が軍と敵対した。これは不義であり、徳川家の恩を裏切った罪は深い。しかし、時には仕方の無い事もあるだろう。今は、兵右衛門を斬罪に処すことを免じる」

な、なんか優しいようで怖い!冷気を感じるよ、土方さん!!素敵!!
しかし兵右衛門さんも覚悟を決めてるからかしゃあしゃあと答える。

兵「藩主にはやむなき事情があります。近国はことごとく官軍に味方しているとは言え、そこに(笠間藩の)誠はありません。藩主越中守が、後に本当の誠を見せること、神に誓って間違いありません。」

土「笠間藩主に間違いなく誠があることを認める。したがって、藩主は誓約書を認めてその旨を告げるべきである。後に重臣3人は我が陣所に来るように。」

で、結局笠間藩は裏切りっぱなしだったわけですが…(汗)

谷口さんによると、この日(19日)に土方さん足撃たれてんだよね。
それから5日後の24日に負傷兵と共に会津へ向かってるの。
もしかすっと土方さん、足の負傷は一発だけじゃないのかもね。
足指、足の甲、とか書かれててどっちだ、と言われるけど、
実はどっちもなんじゃない?めっちゃ撃たれたんじゃない?
でも19日に負傷してなお宇都宮城に自ら乗り込んで、籠城戦にも出陣して。
うーん、男だ。負傷に関しちゃ伊庭さんのが上だけどね。

土方さんが会津へ向かった後、大鳥さんとこに松平太郎さんが来ます。
タロさん、命狙われてんですけど!?(汗)
旧幕府軍の進軍を止めに来たから裏切り者だろうって事になって。
あぶねー…。殺されなくて何よりだったよ。

お、長くなったので次回に続きます。

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