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会津の旅:阿弥陀寺

(私ずっと「あみだでら」と思ってました。「あみだじ」なんですね…。)
阿弥陀寺は七日町駅を降りてすぐです。ホント目の前です。
これで迷ったりしたらキング・オブ・方向オンチです。

阿弥陀寺

阿弥陀寺の入口はこんな感じ。
慶長8年(1603)年から開山された伝統あるお寺。

左に見えるのが明治31年9月に建てられた鐘で、
右手奥に見えるのが明治3年に鶴ヶ城から移築したという「御三階」です。
密議や月見に使われる場所だったんだとか。
私達が行った時は閉まってましたが、中に萱野権兵衛の木像があるらしい。

慰霊碑前

阿弥陀寺に入った左側には戊辰戦争戦没者慰霊碑がどーんとあります。
斎藤一忌が行われてた時にはガードが置かれてました。
ここの塀に登って斎藤一忌を見ようとする人がいるからなんだそうです。
バチあたりですねー。そんなことやっちゃダメですよー。
斎藤さんも悲しみますよ、そんな事したら。

徳川葵

慰霊碑入口の門には…さすが会津。徳川葵がでーんと。

慰霊碑

中に入る事はできなさそうだったので、門の間から撮りました。
3つある柱にはびっしり会津藩士達の名前が書いてあります。
およそ1300人だそうです。…お、多いよ…(涙)。

藤田家の墓

これが斎藤一…もとい藤田五郎さんのお墓です。

斎藤一忌の際にどなたかが言ってらしたのですが、
斎藤さんはこの阿弥陀寺に多額の寄付をしていたそうですね。
戊辰戦争で死んだ仲間達が葬られている事、
さらに西南戦争で死んだ会津藩士達68名もここに合祀された事からして、
斎藤さんがこの寺に深く心を傾けていたのは間違い無いでしょう。
やっぱ永倉さんの気持ちと同じような気がしますね。

どこかの研究書に載ってたんですが、板橋にある近藤さんと土方さんのお墓、
あの建立に斎藤さんも携わっていた可能性があるようです。
というか、ほぼ間違いなく携わってたんじゃないかと私は思うんですけど。
あんまりその話聞かないんでね。違うのかなぁ。
建立関係の文書に「斎藤」の署名が書かれているそうです。
でも時期的に本来なら「藤田」なはずなんですけど、
それだったら永倉さんも「杉村」のはずでしょ?
でも永倉さんは「永倉」って書いてんの。
だったら斎藤さんも「斎藤」でいいんじゃない??みたいな。

…携わってて欲しいなぁ。何か決定的な史料ってないんだろうか。

あ、そう言えばあんまりお墓等の写真を好まれない方もいるようですね。
バシバシ載せててすいません(汗)。
以前お墓の写真を撮らずに帰って、お寺の写真だけ祖母に見せたら、
「なんでお墓を撮ってあげないの。かわいそうに。」って言われたので、
それからなんとなく撮るようにしてます。
もちろんお寺側が禁止してたら撮りませんけど。
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会津の旅:如来堂

如来堂…。斎藤一ファンなら知らないわけがない場所。
斎藤さんがもしかしたらここで死んじゃってたかも知れない場所です。
当時は山口次郎さん。

如来堂

ここもなんだかナマっぽくて良い感じの史跡だと思いますよ。
あえて夜中に一人で来たくなる場所ですね(やめとけ!)。
ひろーい畑の中にぽつんとあるんです。なんかオアシスみたいに(笑)。
季節の花とか結構綺麗に植えられてて面白いです。

彼岸花

雨が降ってました。

「新選組殉難地」の石碑、いったいいつ頃建ったものなんでしょうね。
清水屋旅館跡とは全く違ってとても古びてるし…。
昭和~・・少なくとも30年ぐらいまでには建った、か?もっと古いか?
この石碑の裏に「…13名は華と散った」と書かれてあって、
あたかも斎藤さん達全滅しちゃってる風でもあり、
なんだか言葉口に戦前風を感じるので、もしかしたら昭和初期かな。
案内板には書いてなかったしなぁ。

おそらく新選組ブームで新たに建てられたであろう奥の案内板は、
斎藤さん好きの芭雨さんが喜ぶぐらい良い書かれ方だそうで(笑)。
斎藤さん好きは来るっきゃない場所でしょう。

場所は、会津でもらえる観光マップの端っこに書かれてます。
歩いて行け…なくはない、ですが、ちょっと遠いか?
七日町駅を阿弥陀寺とは逆方向に出て川を渡り、
川を渡ったすぐの道を右へまーっすぐ進んで行くと信号が見えてきます。
その信号を曲がって前に…まあ、なんか木がこんもりしてるとこです。
途中にキリシタン塚や中野竹子殉節碑があったり、
如来堂のもうちょっと先には神指城跡という史跡もあります。

会津の旅:田島陣屋

田島陣屋…ふふ。田島陣屋なんてあんま行かないだろうなぁ…。
しかも電車で。たいてい行くとしたら車だよなぁ…。

でも私は電車で行きました。会津若松から会津田島まで。
片道1160円だったかな?快速で約1時間。普通で約70分ぐらい。
嗚呼~♪田島のためだけに~♪

田島陣屋跡に何があるのかって?いや、石碑しかありませんよ。
↓こんな感じの。町役場の片隅にあるの。

田島陣屋跡

これ見たらさよならです。田島にいたのはしょうみ~…15分ぐらい?(笑)
会津田島駅に観光案内所があるので、そこで地図をもらえば迷う事はない。
ただ田島陣屋の場所は書いてありませんよ。町役場を目指すんです。

え?田島陣屋が何か新選組と関係あるのか?ありますよー。
新選組というか、土方さんがね、

寄ったの。

泊まったんじゃないかとも思うけど、わからないなぁ。
秋月登之助さんといったんここで別れたんです。
秋月さんの親戚?か誰かがここにいたらしいんだよね。

デジカメで撮っといた案内板を読んでみると、
どうやら田島陣屋は三度場所が変わっているらしい。

…。
あれ、なんか嫌な予感がする…。

元禄年間に建てられた最初の田島陣屋が現在石碑のある場所で、
寛政2年(1790年)には町役場の東、つまり反対側に中町陣屋として移動し、
慶応元年(1865年)には中町不動脇に後町陣屋として改築…・・・・。

それって……土方さんが寄ったのはこの場所じゃないって事!?
うっそぉ!!だまされたぁ!!返せ、私の4時間分!!(笑)
中町不動脇ってどこ!?私の行きたいとこはそこじゃん!!
ああ~…。…ま、いいか。今度行こう。(いつだよ)

なんかですね、ちょうど会津田島に行く時、
トロッコ列車というちょっと変わった電車に偶然乗り合わせました。
田島までの名所を解説つきで回ってくれる観光向けの電車です。
これに乗ると素晴らしい景色が堪能できる変わりに時間がかかります。
乗ってからわかりました(笑)。乗車料プラス300円。

今回は会津まつりの影響で親子連れの方やてっちゃんがいっぱいいたけど、
普段は数人しか乗ってないって車員さんが言ってました。
余談ですが、会津田島は祇園祭でも有名らしいですね。

会津の旅:滝沢本陣再び

ちょっと雨模様の時間に滝沢本陣に行って来ました。
早い時間だったので大丈夫かな、と思ってたら大丈夫でした。

滝沢本陣入口

ここ私大好きなんですよね。一番当時の雰囲気が感じられる気がする。

慶応4年8月22日、松平容保はここで白虎隊に出陣命令を出したんだとか。

明治14年10月に有栖川宮熾仁親王もここに来たらしいですよ。
熾仁親王と言えば、和宮さんと結婚する予定だったのに破棄されちゃって、
戊辰戦争勃発時には新政府軍側の総大将にもなった人です。
ふーん…。そんな人もここに来たんですねぇ。

古本

これが前来た時から気になっていた古本なんです。よ、読みたい…。
そーとー古いです。なんせ延宝年間(1673年~1680年)に建てられたから。

裏門

これはー…なんと言えばいいんでしょう。裏門??しぶいです。

以前も言いましたが、ここはなんてったって疵痕が凄いんですよ。
弾痕、砲痕、刀痕、そこらじゅうにあります。
ホント、一度行ってみてください。ゾクゾクしますから(笑)。
どーも飯盛山の陰にあるせいか人気が無いみたいなんですよねー。
まあその方がゆっくり見られて私は嬉しいんですが。

あ、それから。本陣駐車場入口付近にあるこの触書。

触書

最初は何か戊辰戦争と関係あるのかなーと思ったら特に無いみたい。
指名手配の触書です。これはその複製版でしょうけど。
捕まえた人には褒美として銀5枚と苗字帯刀が許される!!すげぇ!!
苗字帯刀ってやっぱり凄い魅力的なものだったんでしょうね。
例え百姓がその犯人を捕まえたとしても苗字帯刀を許すってんだから、
当時帯刀していた百姓も案外いたのかも知れません。
土方さん家には、百姓の家なのに刀掛けがあったって言うし。

そういや「百姓」って差別用語だって聞いた。知らなかった~。

決意

ファンクラブに入ります。


会津まつり新選組パレード!

24日の朝9:00から阿弥陀寺で行われた斎藤一忌。
新選組パレードはここからスタートです。
私は京都平成新選組隊の皆さんと一緒に不動滝に泊まっていたのですが、
起床が朝5:00、出陣は朝7:00ですよ!?早っ!

不動滝本陣

これが新選組の本陣、不動滝旅館ね。土方さんが湯治したという温泉宿。
不動滝本陣から新選組隊士達が出陣していく様子は面白かった(笑)。
ザッザッていう足音が温泉地に静かに響いててね。

阿弥陀寺に集合

私達が阿弥陀寺に着いた時には既に人がたくさんいました。
すごいなー。各地の新選組も続々集まりまして。大人数でした。
鐘も鳴らしてましたし、新選組!のサントラも流れてたし。
土方家ご子孫の方、佐藤彦五郎ご子孫の方もいらしてました。
斎藤一ご子孫の方も来られる予定だったのですが、都合により来れないと。
…ちょっと斎藤さんらしいと思ってしまった(笑)。

藤田家の墓

法要の後に観客はご焼香。
隊士さん達はそのままパレードに行かなければならなかったので、
後に聞いたらご焼香できなかったのを残念がってました。

とりあえずパレード終了地点である鶴ヶ城に先回り。

鶴ヶ城を見上げる

昨日は耕史さんがいたのもあって、鶴ヶ城からステージを見てた人が沢山。
私達もそれに習って鶴ヶ城から眺めてみる。

新選組集合

きゃー!!景色きれー!!
は、もしかして高所恐怖症の人はこの写真NGか!?
一番手前の長くて青い団体が新選組ですよー。たくさんいるのぅ。

集合写真

パレード帰陣式が終わった後は、新選組隊士と無外流の方々で写真撮影。
この画もすごいな…(笑)。ちょっと天気悪かった。
あー実際の新選組隊士達のこんな写真が残ってたらなぁ…。
真ん中には土方家ご子孫の方々もいます。

新選組解散

集合写真を撮り終わったので、皆それぞれかいさーん。
皆さん、お疲れ様でしたっ!!
これが終わった途端に雨が降り出しましたよ。危なかった~。

ちなみに、新選組パレードをやるのは今年が初めてだったそうです。
会津の会長さんは、来年以降も続けていきたいって言ってくれてました☆

パレードが終わった後には、函館の土方歳三コンテストならぬ、
会津ならでは斎藤一コンテストが行われました☆
(私は会津田島で時間食って見られなかった…汗)
優勝者は京都平成新選組隊の隊長さん!!おめでと~!!(>_<)/

会津の旅:清水屋旅館跡

ここは何度も通りました。会津若松駅よりも七日町駅の方が近い。
まあ会津若松駅からでもいけなくはない距離です。
七日町を出て正面に伸びる七日町通りをまっすぐ行くとそのうち見付かる。
一応最寄りのバス停は「白木屋前」かな。ちょうど今は大東銀行がある所。

清水屋跡

こんなささやかな史跡。だけど立派な史跡。
会津でもらえる地図にちゃんと土方さんの名前が載ってるからすごい。
まあ、なんてったってね。

土方さんが枕を投げた場所だから。

そんな大事件が起こった重要史跡ですよ。
石碑ぐらい建っててもらわないと。しかし絶対最近だよな、この石碑。

清水屋碑

だって光ってるもん。光沢があるもん、この石碑。

案内板を見ると、若き日の吉田松陰(22)もここに泊まったらしいね。
…どうして佐幕に染まってくれなかったんですかぁ松陰先生ぇ!!
言ってもしょうがない。松陰先生が佐幕攘夷になってたら歴史違うな。

土方さんが枕投げた事とかは書いてないなぁ。おかしいなぁ。
療養してたとしか書いてないよー。あれー?(当たり前)

明治15年には自由党の宇田成一が帝政党に襲撃されて重傷を負ったとか。
昔の政治ってこえぇ…。命がけだよな、ホント。

こんな事件も起こっている清水屋旅館は木造3階建て。
昭和の初めに残念ながら取り壊されちゃったと。ほんと残念ですたい。
昭和初年って事は、当時の写真が残ってる可能性はあるな…。
と、最近すぐ思ってしまう。誰か見付けてください。そして公表して。

いや、マジでね。
清水屋が残っていれば、不動滝と1,2を争う人気ぶりだったと思うよ!?
絶対泊まるもん!私!!そして枕を投げる!!!
「病床を侵すな!」とか叫んで。「臆病者!」とか(笑)。
そんなわけでどうですか、会津観光協会さん。いざ清水屋復元!!
…え?大東銀行?そんなのいらないじゃん。
すぐ近くにもう一つあるんだから。な?(ひどっ!!)

会津の旅:西軍墓地

今回、会津若松駅に着いて初めて目にした史跡は西軍墓地。
ホテルに向かう途中で見かけました。
実は行く気は無かったけど偶然通りかかったから見たという…(汗)。
会津若松駅の前を横切る大通りを右にまーっすぐ行くと会津町方伝承館。
その伝承館の向かい側が西軍墓地入口となっております。

西軍墓地入口

奥に見える公園の一角が墓地になっとるわけです。

西軍墓地門

ここが入口なんですが、私が行った時は開いてなかったようで。
公園の滑り台とかから中を一望できないかと思ったんですが無理でした。

西軍墓地内

しかたないので塀の間から撮ってみると案外撮れた。

この西軍墓地、明治2年4月にできてから太平洋戦争終結まで政府が管理し、
その後12年間放置されていたためだいぶ荒廃が進んでしまったようです。
それを昭和32年9月15日に西軍墳墓史跡保存会が改修したんです。
改修直後には山口県知事も来たそうで。
いまだに長州への憎しみが強い会津へ来るのちと大変だったかも?

土佐藩49人、薩摩藩33人、長州藩24人、大垣藩20人、肥州藩11人、
備州藩6人、岡山藩3人、館林藩2人、越前藩1人、不明1人の墓地だそうです。
これを考えてみると、高知県知事が来ても不思議じゃないんですけどね。
なんか西軍代表ってやっぱ長州藩(山口県)なんですかね。

案内板が3つあるんですが、一番古そうな案内板には計174人。
道路に面してる案内板には計150人…どっちが正しいんだ?
藩別人数を合計すると150人なんですが…。
もしかしたら荒廃が酷くて無くなっちゃったのもあるのかも。

和洋土方ポスター

いや、もうカテゴリーがわかんねぇけど、なんだよNHK!!
こんな素敵な事してくれんだったらもっと続編の尺増やせ!?

・和装土方さんポスター (笑顔!)
・洋装土方さんポスター (厳しい顔)

どちらも1050円。セット販売あり。
9/30予約開始。10月中旬にNHKサービスセンターより発売。
詳細はコチラ

え?私?私は両方買いますよ。当たり前じゃないですか。
私は一時の感情に身を任せる女ですよ。
一時の衝動で金を湯水のように使う女です。
後の私がどれだけ後悔しようと知ったこっちゃないぜ。

会津まつり藩公行列!通常ver.

さ、今度は会津レポ通常バージョンです。

磐越西線

可愛いー!!この電車のキャラクター、あかべこのあかべぇです。
やべぇの。可愛いの。頭でっかちなんだよ。きっとカクカクできないよ。
以前もそうでしたが、郡山から磐越西線で約1時間で会津若松へ。

会津まつり提灯

去年来てないのでわからないんですが、会津って新選組に優しいよね。
白虎隊がメインだと思ってたけど、新選組もメインになろうとしている。
大河、さらに続編効果もあるだろうけど。あったけぇ…。会津あったけぇ。

そんな会津で会津まつり。23日は藩公行列!まずは出陣式!!
みんな朝早くから待ってた様子。私もです。でも寝坊した。

先人感謝祭

そうそう、出陣式の前に先人感謝祭というのもやってたんですよ。
みんなステージに注目し過ぎてあまり見てなかったけど(笑)。
鶴ヶ城の屋根から広場に向かって矢を放ったりね(!)。祭っぽかった!!

出陣式

いよいよ出陣式の始まり!馬上の先触れが始まりを告げに来ます。
大砲とか銃撃とか、とにかく迫力ある祭で楽しい。
板橋じゃ銃撃禁止だったからねー。まったく東京ってやつぁ…(笑)。

殺陣

土方歳三vs西軍。「官軍」なんて言ったらおじさんに殴られます。
耕史さんの前って緊張すんだろーなーと思いながら見てた。
当然のように土方さんが勝ちます。
でもトドメは娘子隊なの(笑)。背中からズバッとね。

剣舞

白虎隊隊士達の剣舞。

娘子隊

娘子隊隊士達の剣舞。
日野や会津はホント市中総出で祭してる感じがイイなぁ。
思えば函館五稜郭祭は、市民の協力が少なくてなんだか淋しかった。
ガンバレ、函館。盛り上がれ、函館!!

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会津まつり藩公行列!山本耕史ver.

わたし、今マジな話熱があります。たぶん風邪です。
頭がクラクラする…は、吐きそう。さっき薬飲んだけど。

てなことより何より、洋装土方万歳!!
もう函館で見られなかったのが悔しくて悔しくて。
会津ありがとー!!晴れてくれてありがとー!!嬉しいー!!
山本耕史さん、暑い中洋装ありがとー!!幸せーvvv(>_<)おえー。

そんな山本耕史さんに感謝の意をこめて、山本耕史すぺしゃる!!
いつもの会津まつりレポとは別にします!!重くてすまんのぅ(-_-)y-~~

全写真、無断転載・二次利用等、一切厳禁でお願いします!!
※て、やっぱり肖像権の問題で変更。スイマセン!(>_<)

出陣式1


イン・ザ・出陣式!!

耕史さんのオフィシャルファンサイトに写真が出ていますが、
紹介される前、彼は舞台裏のテントに控えていました。
チラッとテントから顔を出した時があって、すぐさま歓声があがる(笑)。
すぐスタッフの人が隠してました。まだみたいですよ。(笑)

紹介されて登場した時は、歓声もあがったけどどよめきが起こる。
耕史さんのあまりのかっこよさぶりに。(たぶん)
すごい、なんかこう、なんだろ。「キタ…!」って感じだった。

一人一人コメントをいただきます。まず耕史さんから。

「えー…(黒子さんがマイクを調整しに来る)あ、大丈夫です。(でも調整する黒子さん)…黒子ですね。見付からないように。(笑)(調整終わる)ほんとにあの、去年に続いてお招き、ほんとに嬉しく思っています。今日、天気が崩れるような事も言われてたんですけども、起きてみればこんなに良い天気になって、ほんとに、すごい、この、お祭自体の熱狂、というか、みんなの願いが集まって、天気すらもこんな風に良くしてしてしまうんだなって、みんなのパワーを感じました。今日はほんとにあの、何時間かちょっと分からないですが、皆さんケガのないように、元気にみんなでこの町を歩きましょう。(拍手)続編よろしく。(笑)」

大体こんな事を言っていました。

出陣式2

さぁ、どんどん出陣していきますよー。
耕史さん達は最後にスパッと出て行かれました。よし、追え!追うんだ!!

レッツ・藩公行列!!

もう通りには人がいっぱい。耕史さんファンだけじゃないですしね。

藩公行列1

藩公行列2

耕史さんが近づいて来るとすぐにわかりますよ。
波が…。人の波が…!!て、私も波の一部ですが。

午前中のパレード中に耕史さんが乗馬したそうです。
み、見たかった…!!すっげぇ見たかった!!(泣)
たぶん私はその頃ソバ食ってたんですよ。ああ、ソバが憎い。

白馬

この馬かなーと思ったり。でもこの馬には若殿が乗ってたし??
「白馬の耕史様」とか、言われてたのを聞いた(爆笑)。

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新選組!!~土方歳三最期の一日

せっかくNHKが続編情報ページ作ってくれてんだから、
こまめにチェックしとけよって話ですよね。あと耕史さんの公式HPも。

続編新出の配役がほぼ決定したそうでっす!!

榎本武揚 (片岡愛之助) 蝦夷共和国総裁
大鳥圭介 (吹越満) 蝦夷共和国陸軍奉行
永井尚志 (佐藤B作) 蝦夷共和国箱館奉行
相馬主計 (小橋賢児) 最後の新選組隊長
市村鉄之助 (池松壮亮) 土方の小姓
蟻通勘吾 (山崎樹範) 新選組隊士
山野八十八 (鳥羽潤) 新選組隊士

良かったー!市村出るよー!相馬出るよー!!
あとはどこまでマニアックな人物が出るかだな(笑)
山野さんや蟻通さんがどんな役回りなのか気になる…。
あれ、本編にも出てたっけ?あ、永井さんは本編にも出てたか。
伊庭さんとか出てきたら面白いのにな。でも役者決めづらいかも(汗)
荒井さんとか…小柴長之助さんは?ダメ?マニアック過ぎ?
最近小柴長之助さんに関心があります。もとお庭番衆っすよ。かっけえ。
絶対土方さんにこき使われて信頼されていたに違いない。
話それた。

試衛館メンバーも回想で全員出るみたいv
もちろん斎藤さんもですよ!!…回想だけじゃなく出て欲しいんですけど。
函館が中心のストーリーなのかなぁ。最期の一日だしな。

…サブタイ、「最期の一日」かぁ。…痛い。タイトルで泣きそう。
でも痛いけど見たい。とにかく土方さんが見たい。

ぞくぞく新選組

書くこと有りすぎて何から書いたらいいのかわからないよ!!
どうしよう、どうしよう!!何から書こう!?
続編!?続編の話!?え?会津祭?会津祭??藩公行列!?藩公行列!?
え?ポスター!?え?何!?竹根付け!?え?母成?母成?
斎藤一忌!?うん、うん、書くよ。書きますから。情報遅くてごめんね。
私もビックリさ。つか私が知らな過ぎさ。

とりあえずただいま。そしてありがとう。

 白馬の土方様 

…見られなかった!見られなかったんだよぉ!!
でも見られたけど…!!(意味不明)ああ、もう。
ダメ、ツボ過ぎ。好き過ぎだもん、洋装。しかも馬?ふざけんな。
コロスキカ。生で見てたら死んでたかも知れん。嘘。死なないよ。見せて。

会津レポ、たぶんトリップかかってますが笑って見過ごしてください。
もしくは見て見ぬ振りをしてください。
なるべく早くアップしますよ。できれば明日中に(早)。
この興奮が醒めないうちに。醒めそうにないけどね!!

『谷口四郎兵衛日記』vol.1

はい、解読しましたー。たにぐちしろうひょうえにっき~。
(「しろうべえ」だと思ってたよ…昔の人名ってわからん)
これはね、あれだよ。『幕末史研究』NO.27に載ってるよ。しかも原文。

ほぼ楷書なんだけど、たまにくずし字が入ってるのですよ。
印刷薄くて読めないとこもあるし。てゆうか活字版出てないの?(さあ)
引用NGらしいので全部現代語訳でいきます。

あ、そうそう。
谷口四郎兵衛さんてのは、よくわからんけど旧幕府軍側の人で、
主に土方さんと共に進軍していた人みたいよ?(テキト;)
1868年4月11日の江戸脱出から始まり、1869年5月11日に終わっていると言う…。
なんともドキドキな日記であります。

* * * * * *
まず最初に土方さんの名前が出てくるのは脱出5日後の4月16日。

(日光西街道)宗道村の名主・四郎兵衛は徳川家への恩が特に深く、自分の使用人をはじめとする1500人ほどの兵士や兵糧、金子を提供することを(我が軍に)願い出たので、土方は喜んで受けた

喜んでる!!可愛いー!!!(え)

は、いや、そりゃ喜びますよね。喜んでるぐらいなんだってんだよね…ふ。

さて、大鳥さんのも同じような事があったようです。(『南柯紀行』現訳)

(4/24) 黄昏時、ある村を通行すると、農民達が出て来て、「どうぞ茅屋に入ってください。」、「兵糧を使ってください。」と言うので、半丁ほど立ち寄ると、縁側に籠を並べて握り飯を山のごとく積み上げ、通行する(我が軍の)者に与えた。私はあまりにも不思議に思って、「なぜ、こんなにも私達を饗応するのか。」と問うと、農民が言うには、「私達は農民ではありますが、実に長い間、東照宮(徳川家)の御恩沢に預かっています。徳川家のために御尽力ある(方々)に、せめてもの御用を相勤め、三百年来の御恩義に報いる寸志です。」と落涙して述べるのを聞いて(私は)大いに感歎し、“それにしても、譜代大名や幕臣達の中にも、ただ生活を楽しんでいるだけの者がいるのに、この農民にもこのような忠実な心があるとは、実に可憐だ。"(と思った。)そこで、金子5両ばかりを取り出して、与えようとしたが(彼らは)辞して受けないので、(私は)強いてこの金子を(彼らに)渡し、深く謝して立ち出でると…

あぁ…谷口さんにもこれぐらい豊富な描写をしてほしかった…。
しかも大鳥さんてば結構強引!?土方さんは逆に金子もらってんのに!!(笑)
まあ名主と農民の違いもあるのかな。

この後土方さんはぐんぐん進みましてー。19日に笠間藩士を捕らえます。
捕らえた笠間藩士・兵右衛門さんに向かって土方さんはこう言います。

「私は(そちらの)事情をよくわかっている。ただ、同じ幕臣である笠間藩が、我が軍と敵対した。これは不義であり、徳川家の恩を裏切った罪は深い。しかし、時には仕方の無い事もあるだろう。今は、兵右衛門を斬罪に処すことを免じる」

な、なんか優しいようで怖い!冷気を感じるよ、土方さん!!素敵!!
しかし兵右衛門さんも覚悟を決めてるからかしゃあしゃあと答える。

兵「藩主にはやむなき事情があります。近国はことごとく官軍に味方しているとは言え、そこに(笠間藩の)誠はありません。藩主越中守が、後に本当の誠を見せること、神に誓って間違いありません。」

土「笠間藩主に間違いなく誠があることを認める。したがって、藩主は誓約書を認めてその旨を告げるべきである。後に重臣3人は我が陣所に来るように。」

で、結局笠間藩は裏切りっぱなしだったわけですが…(汗)

谷口さんによると、この日(19日)に土方さん足撃たれてんだよね。
それから5日後の24日に負傷兵と共に会津へ向かってるの。
もしかすっと土方さん、足の負傷は一発だけじゃないのかもね。
足指、足の甲、とか書かれててどっちだ、と言われるけど、
実はどっちもなんじゃない?めっちゃ撃たれたんじゃない?
でも19日に負傷してなお宇都宮城に自ら乗り込んで、籠城戦にも出陣して。
うーん、男だ。負傷に関しちゃ伊庭さんのが上だけどね。

土方さんが会津へ向かった後、大鳥さんとこに松平太郎さんが来ます。
タロさん、命狙われてんですけど!?(汗)
旧幕府軍の進軍を止めに来たから裏切り者だろうって事になって。
あぶねー…。殺されなくて何よりだったよ。

お、長くなったので次回に続きます。

戦争体験者との交流会1

今年8月15日に埼玉平和資料館で行われた交流会に行って来ました。
交流会と言うかほぼ講演会で、質問があれば答える感じです。

「内容は後日」って言っといてあやうく忘れるところでした。(^_^;)
もうちょっとインパール作戦を勉強してからと思ったけど、
なかなか進まないので、とりあえず備忘録風味で書きます。
勘違いしてるとこもあるかもしんないけど、許してください。

+ + + + + + + + + +

話してくれたのは、村上八十八さんと言う方でした。
昭和19年にビルマで行われたインパール作戦に出陣してた方です。

インパール作戦というのが基本的にどういう作戦なのか、
まだ勉強してなくってわからないんですが、
確か…軍需物資を届けるついでに敵陣を破壊する、みたい作戦だったような…。
ん?ビルマ奪還が目的だったんだかそんなんだったか。
とにかくも当時の日本としてかなり無謀な作戦だったみたいです。

その作戦を「ぜひ私にやらせてください!」と東条英機に直談判した人がいて、
インパール作戦がついに決行される事になったと。

…なんかお偉いさんはさっさとビルマを撤退しちゃってたそうで。
それを後で知って、八十八さんは仲間と共に酷く憤りを感じているとか。
自分達の直属の隊長さん達は、当然戦地へ赴いて戦死してしまったり、
撤退命令を出したからと言って罷免されたりしたそうです。

罷免だったらまだいいじゃん、て。そんな甘く無いのが戦時下。
罷免=軍事裁判=死刑ぐらいの勢いらしいですね。
講演会終わってからじいちゃんに聞いたらそうだっつーから。
………………あぁ…だから泣いてたんだ、八十八さん、と思った。

どう進んでどう戦ってどう撤退して、という詳しい話もあったんですが、
さすがにこれはあやふやに説明できないので割愛。
ちなみに敵はイギリス軍とイギリス支配下のインド軍です。

こないだディスカバリーチャンネルでちょうどイギリス兵から見た
インパール作戦をチラッと放送してんのを見たけど、
やっぱりイギリスの方が勝ち組だからまだ状況はいいね。
日本は軍需物資も食糧も途絶えてる上に惨敗続きだから、
ものすごい悲惨な状況が続いたようです。
特にビルマはマラリアや赤痢に苦しんだとか。
これはイギリス軍も同じなんですけど、食糧はまだあるから。

イギリス軍側には連合国軍からの落下傘物資が届けられてて、
たまーにそれが風に流れて日本軍側にもやってくると。
それを取っては仲間で分け合っていたらしいです。
イギリス軍の食糧はいいものばっかりだったらしい(笑)
ディスカバリーによると、慰労パーティーなんかもしてたって。

かたや日本軍の食糧事情はと言うと、が・ん・え・ん。
岩塩ですよ。あと山とかで採れるモミとか。あと、軍馬?(ひい!)
本土自体危ないのに落下傘部隊なんて来れるわけもなく。
でも岩塩て腹持ちがいいらしいよ。
フラフラしてても岩塩なめるとまだ立ち直れるらしい。
モミ探し隊と白兵隊に分かれて戦ってたそうです。
軍馬を食べるのはしょうがないと思うかもしれないけど、
軍人にとって軍馬はものすごく大事な仲間だそうで、
八十八さんは結局最後まで食べなかったそうです。
馬の屍肉を食べると何故か死ぬ人もいたようで。病気だったから?
あと象もね、軍用ビルマ象部隊を食べようとしてた人もいたとか。

とにかくマラリアが酷くて、仲間がどんどん死んでくと。
もう後何日で死ぬ、というのがわかってくるそうです。
ハエがたかり、ウジがわいて…。そりゃもう酷い状態で。
実は戦闘中に死んだ人よりも行軍中に死んだ人の方が断然多いんですね。
軍馬もどんどん死んでくから、荷物を自分達で運ばなきゃならないし。

八十八さんが所属していた烈兵団山砲兵三一聯隊第三中隊は、
148名いたところ、最終的に生き残ったのは22名だそうです。うち、戦死者12名。
砲兵隊は白兵戦をしないので戦死者は他より少なかったとか。
軍馬は1228頭、全滅。全て日本の馬だったそうです。

この講演会、カメラ回ってたのできっと資料館で保存してんだろうと思う。

新選組屯所の写真

更新してねぇ…(汗)。何度も来てくれてる方がいたらすみません。
いろいろやってんですけどねぇ。
…『谷口四郎兵衛日記』の解読とか(笑)。
土方さんの手紙とか、解読文なしで読めるようになりたい。
そしたら不意に何かが発見された時すぐわかるじゃん?(何の話ダヨ)

皆もう知ってんだろーなー知ってんだろーなーと思いながら。

京都大学電子図書館で古い新選組屯所写真が見れるー。
新選組屯所跡
新選組屯所内の前庭
古高俊太郎の旧家(桝屋?)

残念なのは写真集の出版年がわからないところ。いつの写真だろう。
どっかに書いてあったかなぁ・・・。

幻の句 「なず菜」

日本伝説拾遺会『日本の伝説 1 北海道/東北』と言う本を
古本屋で見付けて、なんと1冊100円だったので即買いしました。

発行年が書かれていないんですが、
第11巻が昭和52年に発行されているようなので、
たぶん昭和40年代だと思われまする。『燃えよ剣』ブーム絶頂期。

土方さんについての特別ページは無い。
しかしもっとマニアックな柳川熊吉について書いてある。
著者は文学者・尾崎秀樹氏。日本史にも何かと詳しい人。
そこに出てくる土方さんの辞世の句が…。

叩かれて 音の響きし なず菜かな

………。
…………………はぁあ!?

なんですかぁ!?その辞世の句はぁ!?
「たとひ」でも「よしや」でも「下り鮎」でもねぇよ!??

同書には土方さんの戦死状況について
「負傷した後に近くの民家に運び込まれて息をひきとったとも言われる。」
とか書いてあるので、その民家に伝わってでもいる句なんですかね??
それとも誰かの俳句が土方さんのだと誤伝された?

…いや、しかしね。
なんとなく土方さんが作りそうな句だと思うのは気のせいですか。
「梅は梅」とすごく似た感じがするんだヨ!!
まんまじゃん!!みたいな!!だってまんまじゃん!!(笑)
ナズナってなぁペンペン草の事っしょ?それぐらい知ってるさ。
葉っぱをちょっと茎から剥がして回すとチャカチャカ鳴るんだよね。
小学校の頃にやりました。いや、幼稚園の頃にやりました。

…・・あれですか?
…土方さんが箱館でペンペンやってたとでも言うんですか?

可愛いじゃねーかコノヤロー

よしんばナズナを追いつめられた自分に例えてるんだとしても、
ナズナって!!春の七草の一つだっつの!!ホント春好きだなぁ!!
五つまでしか覚えてないんじゃなかったっけ。
セリ、ナズナ…あ、2番目に入ってるわ。セーフ。

* * * * *

さて、それでは本題に入ります。(前置き長っ)

以前から何回か記事にしてる事ですが、vol.1 vol.2
明治2年3月14日に箱館咬菜園で榎本さんが幹部6人を連れて、
宮古湾海戦前の別盃とも言える清遊会を開きました。

咬菜園跡の説明板では榎本さん、中島さん以外の出席者が不明。
回天に乗り込む予定だった土方さんは必ず出席してたはず!と思う。
…でまぁ。何が言いたいのかと言うと。
この3月14日に土方さんが作った句が「なず菜」じゃないかな、と。
ほら、春の句だし。ピッタリじゃん。
明治元年12月に箱館句会に参加したと言われてるけど、
そんときゃ冬でしょ?俳句が「わが齢 氷る辺土に 年送る」だし。
別盃の席で作った句が辞世の句だと思われてもおかしくないしさ。

どうよ。この考え、どう?

函館で調査したらフツーに「あ、そうですよ」て返されたりして(笑)。
いずれもう一度函館には行きたいなー。
誰か何か知ってたら是非教えてください(>_<)>

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