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会津新選組記念館など七日町辺り

基本的に以前行ったことある場所は軽めに紹介。

10年前はねぇ、会津新選組記念館なんてなかったんだよ。
いつの間に。笑

会津新選組記念館

◆公式サイト

七日町通りの、阿弥陀寺と清水屋旅館跡の間の交差点にある。
1階は骨董屋さん・グッズ売り場で、2階が展示室になってるお店。

ここの史実的メインは現在は伝・芹沢鴨の陣羽織&鎖帷子かな。
なんか内側にびっしり神仏名が書いてあるやつ。
あと、斎藤一さん関連の写真とか説明とか。
全体的には大河ドラマ『八重の桜』に関連した品とか台本が多かった。

確か去年、TV番組『YOUは何しに日本へ?』で、
海外の斎藤一ファンの方がここで斎藤さんの写真を見てたりしてて、
宇都宮藩士の戦利品で元新選組隊士の刀ってのが映ってたんだけど、
それはもう展示されてなかった。
今年の5月に栃木の方に姉妹館ができたらしいので、
宇都宮ゆかりの品だし、そっちに展示されてるのかも~。

ま、いずれ、栃木にも行く、かな…うーん、どうかな(笑)。
店員さん、質問責めしちゃってすいませんでした。反省しよ…。


せっかくなので、斎藤一さんのお墓にも参拝。(→過去記事

斎藤一の墓(阿弥陀寺)


清水屋旅館跡にも。(→過去記事

清水屋旅館跡

過去記事、ちょっと口汚くてすいませんね(苦笑)。
昔は新島襄・八重夫妻じゃなくて宇田成一さんの説明があったのかな。
『八重の桜』でけっこう変わったんだろうな、やっぱり。

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会津刀匠三善長道・和泉守兼定の墓

どっちのお墓の場所も、会津若松駅でもらえる
会津若松観光マップってのに載ってるからわかりやすいよ。

「三善長道」とは、近藤勇さんが池田屋事件の褒美として
会津藩主・松平容保さんから賜った刀として有名だよね。
私も最近になって思い出しました。(おい)
その名刀ぶりから「会津虎徹」とも称される刀匠さん。

「和泉守兼定」は、もう言わずもがな。笑
土方歳三さんの愛刀ですね。会津兼定11代目の方。

あー、ちなみに夏場のお墓とかは虫(特に蚊)との戦場です…。
夕方とか薄暗くなると特にヤブ蚊の活動が異常なので、
夏の夕方に碧血碑へ行ってしまった時は酷い目に遭いました…。
虫よけスプレー必須。できるだけ朝~昼の明るいうちに。

刀匠三善長道さんのお墓は法華寺にあります。
本堂に向かって東の端にあります。境内入口に案内碑もあるよ。

刀匠三善長道の墓

ここは絶対夜には来れないなってとこでした。笑
いやどこにしろ夜にお墓参りするもんじゃないけど。

句碑?みたいなのもあった。内容は確認してません。

刀匠三善長道の墓(石碑)


続いて、刀匠和泉守兼定さんのお墓は天寧寺にあります。
天寧寺と言えば、近藤勇さんのお墓があるところで、
新選組ファンならよく知ってるお寺だと思うんですけど、
まさか兼定さんのお墓もあったとは…知らなかったなぁ。

刀匠和泉守兼定の墓2

石碑かっこいい(笑)。会津兼定は古川姓です。
会津刀匠を区別するときに、古川兼定系とか言うみたい。

すごく見晴らしが良いところでさあ。感動しちゃった。

刀匠和泉守兼定の墓1

贔屓して画像を2枚あげる(笑)。

んで、せっかく天寧寺まで来たわけなのでもちろん。
近藤勇さんのお墓にも参拝。

近藤勇の墓(天寧寺)

「よお、10年ぶりだな」

みたいな(笑)。土方歳三さんの慰霊木碑、色褪せたねw(こら
周りの草もけっこう生い茂った気がする。(→過去記事

兼定さんのお墓は境内入ってすぐ左の方に見えるけど、
近藤さんのお墓はかなり奥の方にあるよね。改めて思った。
新政府軍に見つかって荒らされないようにとか、
そういう意図もあったのかなあ…て思いながら登ってきました。


あ、ちなみに。。。
刀匠大和守源秀国さんのお墓は東京品川に。
刀匠越前康継さんのお墓は福井にあるようです。

テーマ : 歴史 - ジャンル : 学問・文化・芸術

Tag : 三善長道 和泉守兼定 近藤勇

母成峠古戦場とその他猪苗代史跡

会津鶴ヶ城の日本刀展を見に行くついでに史跡巡りもしまして。

まさかの10年ぶりのリベンジ成功!!笑。(→過去記事

母成峠古戦場の碑

あ、日本刀展の記事は後で書きます。

いや~…良かった!行けて!!笑
今回も行けなかったらもう一生行けない気がしてた。

解説碑。私が映り込まないようにめっちゃ斜めから撮りました。
裏にはびっしり寄付者の名前が。

母成峠古戦場の碑(解説)

ここに行くまでの道のり、昔は有料だったらしいけど、今は無料。
猪苗代駅からタクシーで行きました。
中ノ沢温泉まではバスがあるらしいんだけど、
そこから徒歩で1時間半って書いてあったから…無理だと思って笑。

行く途中にあった川。
温泉の影響で赤いんだって~。火山岩が影響してるとか何とか。

母成峠までの道中の川

猪苗代は、初代会津藩主・保科正之ゆかりの地らしく、
彼のお墓以外にもいろいろありました。
せっかく来たので、ついでにタクシーの運転手さんに案内してもらった。
ありがとうございました!

▼以下、追記として続きます。

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テーマ : 歴史 - ジャンル : 学問・文化・芸術

会津の旅:母成峠

母成峠行って来たよー!!(>_<)/

…と、言いたい所なんですが。
いや、行きましたよ。行きましたけど…なんだか消化不良でねぇ。
他のサイトさんで見かける、「母成峠古戦場」の碑が見付からなかった。
あんま迷ったなんて話聞かなかったんだけどなぁ…。
下調べが足りませんでした。ガッカリ(;_;)。
せっかく良い天気で眺めが良さそうだったのにー。

………ま、こういう事もあるか!!というわけで。
じゃあどこに行って来たんだというと。

戊辰役東軍殉難の慰霊碑

…母成峠グリーンラインのおっちゃんがさ、
「ここにはそれしかないよ!」ってさ、言っててさ。
「古戦場」の方は新しい碑だからあんま知られてないのかー??
なんか見逃したんだよな、きっと。おかしいなー。

母成グリーンライン

磐梯熱海駅からタクシー使って行ったんです。
はっはっはっ、往復7000円~8000円。1時間。迷わなかったらの話ね。
「万葉の庭」ってとこがあってね。その入口付近にあるの。

入口

なんでしょうね、この、ものっそドキドキする感じ。
入っちゃいけないとこに入っちゃうぞ☆みたいな。いや、入っていんだけど。

広場

普通にこんな感じの広場になってるんですねー。夏でも涼しい雰囲気。

東軍殉難の慰霊碑

ちょっと坂になってますが、立派な慰霊碑が建ってます。
碑石の文字は松平家の方が書いたみたい。

近くに図入りの案内板があって、かなりマニアックだった(笑)。
母成峠の戦いでは、東軍88名、西軍25名の戦死者が出たそうです。
で、知らなかったんだけれども、毎年8月21日に慰霊祭やってるそうです。
この地で。母成峠で。…来年行こうかな。うん。

西郷頼母の和歌

慰霊碑の脇にはこんな碑も建ってる。
写真だとちょっと読めないけど、これは会津藩家老西郷頼母さんの和歌で、

なき魂も 恨みは晴れて けふよりは
 ともに長閑(のどけ)く 天かけるらん


と彫られているんだそうです。
明治22年4月24日から阿弥陀寺で東軍慰霊祭がやっと行われるようになり、
それを喜んだ頼母さんが読んだ和歌なんだそうです。
4月24日…。何かの日なんでしょうか。近藤さんの処刑前日ですよね。
その慰霊祭にはきっと斎藤さんも参加してたと思います。

でも実はこの碑が作られたのは昭和59年9月(近っ!)の事で、
会津藩士小森一貫斎の曾孫が建てられたんだとか。
小森一貫斎…ってどこかで聞いた事あると思ったら、
『谷口四郎兵衛日記』に小森一勘斎って書かれてる人でした。
うぉー当たり前だけど、やっぱ…うん、現実にあった事なんだよなぁ。

次また母成峠行く時は、絶対「古戦場」の碑を見ます!!
もっとマニアックな人は勝岩とか行っちゃうんだろうけど(笑)。

続きを読む »

会津の旅:阿弥陀寺

(私ずっと「あみだでら」と思ってました。「あみだじ」なんですね…。)
阿弥陀寺は七日町駅を降りてすぐです。ホント目の前です。
これで迷ったりしたらキング・オブ・方向オンチです。

阿弥陀寺

阿弥陀寺の入口はこんな感じ。
慶長8年(1603)年から開山された伝統あるお寺。

左に見えるのが明治31年9月に建てられた鐘で、
右手奥に見えるのが明治3年に鶴ヶ城から移築したという「御三階」です。
密議や月見に使われる場所だったんだとか。
私達が行った時は閉まってましたが、中に萱野権兵衛の木像があるらしい。

慰霊碑前

阿弥陀寺に入った左側には戊辰戦争戦没者慰霊碑がどーんとあります。
斎藤一忌が行われてた時にはガードが置かれてました。
ここの塀に登って斎藤一忌を見ようとする人がいるからなんだそうです。
バチあたりですねー。そんなことやっちゃダメですよー。
斎藤さんも悲しみますよ、そんな事したら。

徳川葵

慰霊碑入口の門には…さすが会津。徳川葵がでーんと。

慰霊碑

中に入る事はできなさそうだったので、門の間から撮りました。
3つある柱にはびっしり会津藩士達の名前が書いてあります。
およそ1300人だそうです。…お、多いよ…(涙)。

藤田家の墓

これが斎藤一…もとい藤田五郎さんのお墓です。

斎藤一忌の際にどなたかが言ってらしたのですが、
斎藤さんはこの阿弥陀寺に多額の寄付をしていたそうですね。
戊辰戦争で死んだ仲間達が葬られている事、
さらに西南戦争で死んだ会津藩士達68名もここに合祀された事からして、
斎藤さんがこの寺に深く心を傾けていたのは間違い無いでしょう。
やっぱ永倉さんの気持ちと同じような気がしますね。

どこかの研究書に載ってたんですが、板橋にある近藤さんと土方さんのお墓、
あの建立に斎藤さんも携わっていた可能性があるようです。
というか、ほぼ間違いなく携わってたんじゃないかと私は思うんですけど。
あんまりその話聞かないんでね。違うのかなぁ。
建立関係の文書に「斎藤」の署名が書かれているそうです。
でも時期的に本来なら「藤田」なはずなんですけど、
それだったら永倉さんも「杉村」のはずでしょ?
でも永倉さんは「永倉」って書いてんの。
だったら斎藤さんも「斎藤」でいいんじゃない??みたいな。

…携わってて欲しいなぁ。何か決定的な史料ってないんだろうか。

あ、そう言えばあんまりお墓等の写真を好まれない方もいるようですね。
バシバシ載せててすいません(汗)。
以前お墓の写真を撮らずに帰って、お寺の写真だけ祖母に見せたら、
「なんでお墓を撮ってあげないの。かわいそうに。」って言われたので、
それからなんとなく撮るようにしてます。
もちろんお寺側が禁止してたら撮りませんけど。

会津の旅:如来堂

如来堂…。斎藤一ファンなら知らないわけがない場所。
斎藤さんがもしかしたらここで死んじゃってたかも知れない場所です。
当時は山口次郎さん。

如来堂

ここもなんだかナマっぽくて良い感じの史跡だと思いますよ。
あえて夜中に一人で来たくなる場所ですね(やめとけ!)。
ひろーい畑の中にぽつんとあるんです。なんかオアシスみたいに(笑)。
季節の花とか結構綺麗に植えられてて面白いです。

彼岸花

雨が降ってました。

「新選組殉難地」の石碑、いったいいつ頃建ったものなんでしょうね。
清水屋旅館跡とは全く違ってとても古びてるし…。
昭和~・・少なくとも30年ぐらいまでには建った、か?もっと古いか?
この石碑の裏に「…13名は華と散った」と書かれてあって、
あたかも斎藤さん達全滅しちゃってる風でもあり、
なんだか言葉口に戦前風を感じるので、もしかしたら昭和初期かな。
案内板には書いてなかったしなぁ。

おそらく新選組ブームで新たに建てられたであろう奥の案内板は、
斎藤さん好きの芭雨さんが喜ぶぐらい良い書かれ方だそうで(笑)。
斎藤さん好きは来るっきゃない場所でしょう。

場所は、会津でもらえる観光マップの端っこに書かれてます。
歩いて行け…なくはない、ですが、ちょっと遠いか?
七日町駅を阿弥陀寺とは逆方向に出て川を渡り、
川を渡ったすぐの道を右へまーっすぐ進んで行くと信号が見えてきます。
その信号を曲がって前に…まあ、なんか木がこんもりしてるとこです。
途中にキリシタン塚や中野竹子殉節碑があったり、
如来堂のもうちょっと先には神指城跡という史跡もあります。

会津の旅:田島陣屋

田島陣屋…ふふ。田島陣屋なんてあんま行かないだろうなぁ…。
しかも電車で。たいてい行くとしたら車だよなぁ…。

でも私は電車で行きました。会津若松から会津田島まで。
片道1160円だったかな?快速で約1時間。普通で約70分ぐらい。
嗚呼~♪田島のためだけに~♪

田島陣屋跡に何があるのかって?いや、石碑しかありませんよ。
↓こんな感じの。町役場の片隅にあるの。

田島陣屋跡

これ見たらさよならです。田島にいたのはしょうみ~…15分ぐらい?(笑)
会津田島駅に観光案内所があるので、そこで地図をもらえば迷う事はない。
ただ田島陣屋の場所は書いてありませんよ。町役場を目指すんです。

え?田島陣屋が何か新選組と関係あるのか?ありますよー。
新選組というか、土方さんがね、

寄ったの。

泊まったんじゃないかとも思うけど、わからないなぁ。
秋月登之助さんといったんここで別れたんです。
秋月さんの親戚?か誰かがここにいたらしいんだよね。

デジカメで撮っといた案内板を読んでみると、
どうやら田島陣屋は三度場所が変わっているらしい。

…。
あれ、なんか嫌な予感がする…。

元禄年間に建てられた最初の田島陣屋が現在石碑のある場所で、
寛政2年(1790年)には町役場の東、つまり反対側に中町陣屋として移動し、
慶応元年(1865年)には中町不動脇に後町陣屋として改築…・・・・。

それって……土方さんが寄ったのはこの場所じゃないって事!?
うっそぉ!!だまされたぁ!!返せ、私の4時間分!!(笑)
中町不動脇ってどこ!?私の行きたいとこはそこじゃん!!
ああ~…。…ま、いいか。今度行こう。(いつだよ)

なんかですね、ちょうど会津田島に行く時、
トロッコ列車というちょっと変わった電車に偶然乗り合わせました。
田島までの名所を解説つきで回ってくれる観光向けの電車です。
これに乗ると素晴らしい景色が堪能できる変わりに時間がかかります。
乗ってからわかりました(笑)。乗車料プラス300円。

今回は会津まつりの影響で親子連れの方やてっちゃんがいっぱいいたけど、
普段は数人しか乗ってないって車員さんが言ってました。
余談ですが、会津田島は祇園祭でも有名らしいですね。

会津の旅:滝沢本陣再び

ちょっと雨模様の時間に滝沢本陣に行って来ました。
早い時間だったので大丈夫かな、と思ってたら大丈夫でした。

滝沢本陣入口

ここ私大好きなんですよね。一番当時の雰囲気が感じられる気がする。

慶応4年8月22日、松平容保はここで白虎隊に出陣命令を出したんだとか。

明治14年10月に有栖川宮熾仁親王もここに来たらしいですよ。
熾仁親王と言えば、和宮さんと結婚する予定だったのに破棄されちゃって、
戊辰戦争勃発時には新政府軍側の総大将にもなった人です。
ふーん…。そんな人もここに来たんですねぇ。

古本

これが前来た時から気になっていた古本なんです。よ、読みたい…。
そーとー古いです。なんせ延宝年間(1673年~1680年)に建てられたから。

裏門

これはー…なんと言えばいいんでしょう。裏門??しぶいです。

以前も言いましたが、ここはなんてったって疵痕が凄いんですよ。
弾痕、砲痕、刀痕、そこらじゅうにあります。
ホント、一度行ってみてください。ゾクゾクしますから(笑)。
どーも飯盛山の陰にあるせいか人気が無いみたいなんですよねー。
まあその方がゆっくり見られて私は嬉しいんですが。

あ、それから。本陣駐車場入口付近にあるこの触書。

触書

最初は何か戊辰戦争と関係あるのかなーと思ったら特に無いみたい。
指名手配の触書です。これはその複製版でしょうけど。
捕まえた人には褒美として銀5枚と苗字帯刀が許される!!すげぇ!!
苗字帯刀ってやっぱり凄い魅力的なものだったんでしょうね。
例え百姓がその犯人を捕まえたとしても苗字帯刀を許すってんだから、
当時帯刀していた百姓も案外いたのかも知れません。
土方さん家には、百姓の家なのに刀掛けがあったって言うし。

そういや「百姓」って差別用語だって聞いた。知らなかった~。

会津の旅:清水屋旅館跡

ここは何度も通りました。会津若松駅よりも七日町駅の方が近い。
まあ会津若松駅からでもいけなくはない距離です。
七日町を出て正面に伸びる七日町通りをまっすぐ行くとそのうち見付かる。
一応最寄りのバス停は「白木屋前」かな。ちょうど今は大東銀行がある所。

清水屋跡

こんなささやかな史跡。だけど立派な史跡。
会津でもらえる地図にちゃんと土方さんの名前が載ってるからすごい。
まあ、なんてったってね。

土方さんが枕を投げた場所だから。

そんな大事件が起こった重要史跡ですよ。
石碑ぐらい建っててもらわないと。しかし絶対最近だよな、この石碑。

清水屋碑

だって光ってるもん。光沢があるもん、この石碑。

案内板を見ると、若き日の吉田松陰(22)もここに泊まったらしいね。
…どうして佐幕に染まってくれなかったんですかぁ松陰先生ぇ!!
言ってもしょうがない。松陰先生が佐幕攘夷になってたら歴史違うな。

土方さんが枕投げた事とかは書いてないなぁ。おかしいなぁ。
療養してたとしか書いてないよー。あれー?(当たり前)

明治15年には自由党の宇田成一が帝政党に襲撃されて重傷を負ったとか。
昔の政治ってこえぇ…。命がけだよな、ホント。

こんな事件も起こっている清水屋旅館は木造3階建て。
昭和の初めに残念ながら取り壊されちゃったと。ほんと残念ですたい。
昭和初年って事は、当時の写真が残ってる可能性はあるな…。
と、最近すぐ思ってしまう。誰か見付けてください。そして公表して。

いや、マジでね。
清水屋が残っていれば、不動滝と1,2を争う人気ぶりだったと思うよ!?
絶対泊まるもん!私!!そして枕を投げる!!!
「病床を侵すな!」とか叫んで。「臆病者!」とか(笑)。
そんなわけでどうですか、会津観光協会さん。いざ清水屋復元!!
…え?大東銀行?そんなのいらないじゃん。
すぐ近くにもう一つあるんだから。な?(ひどっ!!)

会津の旅:西軍墓地

今回、会津若松駅に着いて初めて目にした史跡は西軍墓地。
ホテルに向かう途中で見かけました。
実は行く気は無かったけど偶然通りかかったから見たという…(汗)。
会津若松駅の前を横切る大通りを右にまーっすぐ行くと会津町方伝承館。
その伝承館の向かい側が西軍墓地入口となっております。

西軍墓地入口

奥に見える公園の一角が墓地になっとるわけです。

西軍墓地門

ここが入口なんですが、私が行った時は開いてなかったようで。
公園の滑り台とかから中を一望できないかと思ったんですが無理でした。

西軍墓地内

しかたないので塀の間から撮ってみると案外撮れた。

この西軍墓地、明治2年4月にできてから太平洋戦争終結まで政府が管理し、
その後12年間放置されていたためだいぶ荒廃が進んでしまったようです。
それを昭和32年9月15日に西軍墳墓史跡保存会が改修したんです。
改修直後には山口県知事も来たそうで。
いまだに長州への憎しみが強い会津へ来るのちと大変だったかも?

土佐藩49人、薩摩藩33人、長州藩24人、大垣藩20人、肥州藩11人、
備州藩6人、岡山藩3人、館林藩2人、越前藩1人、不明1人の墓地だそうです。
これを考えてみると、高知県知事が来ても不思議じゃないんですけどね。
なんか西軍代表ってやっぱ長州藩(山口県)なんですかね。

案内板が3つあるんですが、一番古そうな案内板には計174人。
道路に面してる案内板には計150人…どっちが正しいんだ?
藩別人数を合計すると150人なんですが…。
もしかしたら荒廃が酷くて無くなっちゃったのもあるのかも。
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